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グリーンブライア郡(、)は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州の南部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は35,480人であり、2000年の34,453人から3.0%増加した〔Quickfacts.census.gov - Greenbrier County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地はルイスバーグ市(人口3,830人〔American FactFinder - Lewisburg, West Virginia - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。グリーンブライア郡はバー時に州時代の1778年に、ボトトート郡とモントゴメリー郡(共にバージニア州)の一部を合わせて設立された〔http://www.wvculture.org/history/wvcounties.html〕。 == 歴史 == グリーンブライア郡となった地域は、1740年頃にヨーロッパ人が入ってくる以前、バージニア州西部の大半と同様に、ショーニー族やチェロキー族インディアンの狩猟場として使われていた。この土地をインディアンは「カンタッキー」と呼んでおり、東の海から来てショーニー族の先祖に殺されたと言われる白人アズゲンスの亡霊が住むと考えられていた。伝説に拠れば、この地域はアズゲンスの骨と霊が所有しており、生存のための猟を認めたが、インディアンの酋長ブラック・フィッシュの証言では「気まぐれに動物を殺すことは決して許されず、この国に定住することを禁じられている。...もし定住するならば、亡霊がその洞窟とマウンドから現れ、我々を殺すことになる。父が子を、子が父を、隣人が隣人を互いに殺しあうようにさせる。」と述べていた。狩猟隊がこの地域に宿営して狩猟を行うことを認められたが、「スペイレイウィチーピ」(オハイオ川)の東と南に定住することは禁止された〔(Note: This reference is a work of historical fiction and therefore contains much speculation and invented quotations.)〕:65-66。 パックシンワやその息子のテクムセなどショーニー族の指導者達は、ヨーロッパ人開拓者の到着を警戒していた。第一に白人開拓地はアズゲンスの禁を犯すものと見ていた。第二に、生存のためには欠かせないと見ていたその狩猟場を失うことを恐れた。さらには白人開拓者がオハイオ川を越えて、彼らの本拠地、現在のオハイオ州に入ってくるのは時間の問題と考えており、それは正しかった。 1774年、ニューヨーク植民地とバージニア植民地の総督だった第4代ダンモア伯ジョン・マーレイが3,000名の軍隊を組織し、ショーニー族の本拠地に侵攻することを決めた。兵士の半分はピット砦で集められ、残り半分は現在ルイスバーグとなっているユニオン砦で集められた。指揮官はアンドリュー・ルイス将軍だった。その年の10月初旬、ルイスの軍隊は下流のカナー川河口、現在のポイントプレザントまで進軍し、ホコレスクワ、別名コーンズトークが指揮するショーニー族部隊と、有名だが決着の付かなかった戦闘を行った〔:78, 98-99。 植民地時代にヨーロッパ人開拓者はインディアンから数多くの襲撃を受けており、中でもランドルフ砦と後にドナリー砦は25人の男性と60人の女性子供が住んでいた所が襲撃を受けた。ドナリー砦の守備隊で英雄的だったのが、ディック・ポインターというアフリカ系アメリカ人奴隷だった。ポインターは身長が7フィート (210 cm) あり、フィリップ・ハマンと共に丸太製の戸口を守り、守備隊が目覚めて攻撃に対する備えができるまでの時間を稼いだ。後にポインターはバージニア州議会で演説し、ドナリー砦を守ったことで「晩年には」解放されることを望むという心を動かす訴えを行った。議会がポインターに自由を与えたかについては、歴史文献で異なる証言がなされている。ポインターの墓は、郡庁所在地ルイスバーグのカーネギーホール傍にあり、ルイスバーグ墓地の中央には歴史標識も建てられている。ルイスバーグにあるノースハウス博物館にはポインターのマスケット銃が恒久展示されている。 1861年からこの地域にも南北戦争の余波が及び、1862年5月のルイスバーグの戦いや1863年8月のホワイトサルファースプリングスの戦いなど、幾つかの戦闘が起こった。この2つの戦闘では北軍が勝った。 アメリカ合衆国最古級のゴルフ場と言われるものが、1884年にホワイトサルファースプリングスの北に、モンタギュー家によって設立された。 第二次世界大戦前の10年間、市民保全部隊の幾つかのキャンプがグリーンブライア川沿いに設立された。 20世紀の大半を通して、メドウ川製材会社がレイネルで世界最大級の硬木製材所を運営した。 第二次世界大戦中、グリーンブライア・ホテルは病院に利用され、また戦中にアメリカ合衆国に取り残された枢軸国外交官の収容所となった。終戦後元のホテルとして使われるようになった。 冷戦時代、アメリカ合衆国政府存続計画の一部として、アメリカ合衆国議会の秘密のシェルターがグリーンブライアに置かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グリーンブライア郡 (ウェストバージニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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